2015年7月29日水曜日

「思い切り胃を蹴り上げたら 君はどんな顔をするのかと思う」〜思春期とは①

ついに僕は51才にして(あまりに遅いが)「思春期」が本当に終わり始めた気がしている。
あまりにそれは遅いが、まあ仕方ないなあ。

そんなわけで、久しぶりにフリッパーズ・ギターの「ナイフエッジカレス」を聞いているが、小沢と小山田の歌詞と歌とメロディは今も最強だ。

特に、屈折しながらも怒る「思い切り胃を蹴り上げたら 君はどんな顔をするのかと思う」のフレーズは最強。
そして、「5月の涙を僕らは誇りに思う」も。

高校生居場所カフェを主催していて、その永遠の「マジックエイジ」の魅力にとりつかれるとともに、そこから完全に離れてしまった自分を毎日客観視する。

そして、なんとなんと、これまで自分がお世話になった人々を思い出したりしている。
それへの「恩返し」がこれからのインセンティブになっていくような。

淡路プラッツ蓮井さんへの恩返しは少し前に終わったので、恩返しモードはこれっきりかと思っていたが、それ以外の多くの人への恩返しを意識することが、つまりは思春期の終わりだったんですね。★




偶然のナイフ・エッジ・カレス(Knife Edge Caress)
作詞/作曲:Double Knockout Corporation


通りを抜けて 遠く離れた 憎しみが今僕に急ぐ
唇噛んで 仕方がなくて 軽蔑の言葉を探した
ショールで覆う僕の悲しさを
わけ知り顔 ピントはずれに なぐさめればいい!

間抜けな言葉で 僕を取り囲む
得意げな薄ら笑いに腹が立つのさ
思い切り胃を蹴り上げたら 君はどんな顔をするのかと思う

でたらめばかり 並べてるうち からまった僕らの寝不足
忘れられない 離れやしない 興奮が今僕を襲う
セシル・ビートン気取りの僕なら
退屈も嘘も切り取れるロマンチックに!

偶然に出会う そして僕は見る
震えているのは寒さのせいじゃないのさ
冷やかしや皮肉言えばいい バカさ加減がわかるさ

僕たちは 跳びはねる 空を仰ぐ 手を突き上げて
この気持ち これ以上 何が言える? どう言えるだろう?

遠くまで見える目には流れ出す
5月の涙を僕らは誇りに思う
君に会う頃はスマートに 切りつける言葉僕は吐くだろう!


2015年7月22日水曜日

ジョンの魂

今日、京都精華大学での今期の授業が終わった。

最後は、学生のみなさんから集まった質問に対して一つひとつ答えていったのだが、そのなかのひとつに「先生はこれまでどんな音楽に影響を受けましたか」というものがあった。

僕はずっとロックファンであり、これからも(新作はたぶん聞かないが)ロックファンだ。
生きれば生きるほど、僕にとって最もたいせつだったのは哲学でも文学でもなく、ロックだったと思い始めた。

で今日、学生さんからあらためて質問を受けた時、ぐっと考えて浮かんできたのは、ジョンレノンの「ジョンの魂」だった。

「ジョンの魂」の1曲目、「マザー」を初めて聞いた時の衝撃をいまだに忘れることはできない。
荘厳な鐘の音が何度か繰り返され、イントロも何もないジョンレノンの「マザー」の叫びが届く。

その鐘が終わる瞬間と、ジョンレノンが「マザー」と叫ぶときが重なる瞬間、あまりの衝撃に15才(16才だったかな)の僕は椅子から飛び上がった。

そこから僕の「ロック」が始まったのかな。

その頃の感覚(のすべて)は、大人になれば忘れてしまう。集団内での違和感、まわりの人々の発する言葉と雰囲気への反発、最も気を許す弟にさえ気を許せない寂しさ、誰かを求めながらも誰も求めていない寂寥感、一言でいえば「ひきこもり」感覚なのだが、僕はやはり孤独だった。

その孤独感に寄り添ってくれたのが「マザー」の叫びだった。

精華大学で語ったのは、できるだけ今の気持ちを覚えておこうということであり、その気持を忘れないと「大人」にはなれないといことであり、その両者が共存するのが「変な大人」ということだった。★

2015年7月20日月曜日

ゴダールの犬

ゴダールの新作(「さらば、愛の言葉よ」)が神戸で上映されると聞いたので、久しぶりに映画を観に行った。
3D映画らしく、僕は始めて3Dメガネをかけて映画を鑑賞した。

ゴダールの映画らしくストーリーはまったくなかったが、一応商業映画なのでそれらしい人物は配置されている。が、ゴダールの前衛ものに入る作品のようで、それら人物や人物たちが話すセリフは無視してもよいと思った。

チラシ等に書いてある通り、主役は犬であり、人間以外の川や花びらや様々な爆音だ。
特に爆音類の爆音ぶりはひどく、映画を観る際の約束事からはるかに逸脱しており、耳がおかしくなりそうだった。

犬から見た川、自然そのものかもしれない爆音、超ローアングルの川、これらは人間が無意識に信じる約束事(世界そのもの)を逸脱する。
時にそれは異常にきらめき、異常に暴力的だ。いずれにしろ人間の許容範囲(言葉の世界)を少しだけ逸脱している。

哲学用語を使えばあっさり説明できる世界を、ゴダールはしらばっくれる。
代わりに、犬の目、その目を通した奇妙な映像類で埋めていく。映画の途中から僕は、人物たちの小難しい会話よりも、水面や犬を待つようになった。
言語の諧謔が背景化するほうが気持ちいいんですね。

あと、子どもたちが走っていく姿も美しい。

映画は最後、赤ちゃんの産声と犬の鳴き声を被らせて終了する。
いずれも「意味」が生じる以前の声だ。たぶん80才を過ぎたゴダールは、言葉による(あるいは既存の映画ルールによる)「世界」の産出に飽き飽きしたんでしょうね。

それでも商業映画を作るのだからスゴイ。★


2015年7月8日水曜日

ゴーストのささやき

暗黒だった高校時代、僕にはアベくんという友人がいて、彼の家は高校から歩いてすぐだつたので、よく授業をエスケープして彼の部屋に入り浸っていた。

エスケープと言ってもアベくんの部屋でタバコ等の「わるいこと」をしていたわけでもなく、彼のベッドにもたれかかったりしていつの間にか1時間たつなど、いまでいう「居場所」として彼の部屋に僕はいた。

彼も僕もロックファンで、僕は「サウンドストリート」の渋谷陽一ファン、アベくんは誰だったかなあ、ピーター・バラカンかもしれないし中村とうようだったかもしれないが、渋谷陽一ではなかった。

だから同じロックファンでも聞く対象がずいぶん違い、彼はツェッペリンもプリンスも聞かなかった。僕は、ボブ・ディランもローリング・ストーンズも(当時は)聞かなかった。

が、居場所としてのアベくんの部屋に入り浸るにつれ、アベくんの好きな音楽を結構聞くようになった。

その一つに、ボブ・ディランの「欲望」があり、その1曲目の「ハリケーン」がある。

その詞の内容もほとんど覚えていないが、最近Apple Musicを利用するようになり、久しぶりに「ハリケーン」を聞いてみると、あのボブ・ディランの声、あのバイオリンの響き、そしてそれとともによみがえる高校時代、そしてアベくんの細々とした言葉、またあの雰囲気あの空気、あの時代のあり方等、どばどばっとたくさんの記憶が蘇っている。

それにともなう、痛みと喜びも。

そうした「沈殿した記憶」、言い換えると「他者の記憶」は、ながらく忘れ去っていたもので、僕にとってはまさに驚きだ。

フロイトは「ヒステリー研究」のなかで、こんな図を示している。

下は、京都精華大学の授業(こころと思想)で僕が殴り書きしたものだから曖昧この上ないのだが、記憶が沈殿し、それが「他者の声」となり(傷ついた場合はそれはトラウマとなる)、我々のうちに知らず知らず染み透り、そのメカニズム自体が我々を我々とする事態をよく示していると思う(図中一番下が「他者の声」あるいはトラウマあるいは「ゴーストのささやき」)。


アニメ「攻殻機動隊」で、主人公が最後に発する決め台詞「ゴーストのささやき」は、作者としては「魂の声」のような曖昧なものとして提示しているだろうが。僕は、我々一人ひとりが捉えているようで捉えきれず我々に沈殿する「他者の声」として理解している。

アベくんとの33年前のさまざまなコミュニケーションは、すべてがゴーストのささやきとなって、33年後の僕をポジティブに支える。★



2015年7月4日土曜日

支援者って必要か? 〜支援者モードでなくなると感じる不思議①

ここのところ僕の意識は(支援者バーンアウトを受けて)「支援者」ではないが、行動としては従来通り支援者としてふるまっていると(たぶん支援のレベルは落ちていないはずで、支援という行動をさらに敷衍して観察する「メタモード」になっているという意味)、いろいろ不思議なことがある。


それは、「支援者って本当に必要なのか?」あるいは「支援者が必要な人々って実はかなり少ないんじゃないか」という身も蓋もない問いだ。


ここでいう「支援者」は子ども若者支援者のことで、医療支援者(医師や看護師)のことはあまり指していない。
高齢者医療や福祉の分野では、不要な医療・福祉専門家もいるかもしれないが、それは語り始めると長くなる(20代の頃の医療ジャーナリスト時代はそんなことばかり考えていた)。


だから今の自分の専門分野である「子ども若者」分野に絞りたいが、ひきこもりの高齢化や発達障がいの周知化とともに、「当事者」がもつ「ピア(仲間)」の力を僕は注目し始めた。


外から見れば一見喧嘩しているような発達障がい者同士のコミュニケーションや、外から見ればネガティブなトークが静かに積み重ねられる40才ひきこもりの交流会なども、当事者同士からするとその場はいろいろあるかもしれないものの、結果として仲間同士で支えあっている。


その支え合いの力があれば、「コミュニケーション支援」か「就労支援」かは知らないが、変に専門知識はあるものの規範意識が強くマイノリティへのバイアスも実は強くもつ一部の支援者に比べれば、長い目で見るとはるかに意味があるのでは、ということだ。


若者サポートステーションが全国に160ヶ所にまで広がったり、各自治体でそれぞれの「自立支援」を模索したり、妙にキャリアカウンセラーが量産されたり、キャリアとスキルなくプライドの高い臨床心理士が毎年毎年つくられたりするのを見ていると、もう支援者はいらないのでは、と素朴に思うのだ。


それら未熟な支援者を量産する暇があれば、「ピア」をサポートする環境づくりに予算を使うのもありだと思う。メインスタッフへの人件費とか、オフィスの家賃とか。


そんな補助金事業を企画して、「当事者」の人たちに提案しようかな。
そんなことまで考える今日このごろです。★