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誰が「ことば」を豊かにする?


■そんなシンプルな価値でいいのか?

アンダークラスの親の「文化」を相対化するには何が一番有効だろうか。
貧困家庭に生まれ、日々アンダークラスの親が使う「庶民的なことば」のシャワーに包まれて育つとき、その「ことばが構築する世界」そのものが、子どもが抱く価値となる。

僕はアンダークラス高校生と仕事で接することが多いが、彼女ら彼らが用いるフランクで庶民的なことばに癒やされることも多い。
だから一概に「庶民的なことば」のすべてが悪いとは言えない。

が、それらのことばは、「ざらついた」感じも僕に与える。あるいは、何かをすっ飛ばしたような、荒っぽい感じもする。
そして、丁寧に(あるいは粘着質的に)語る僕のような言葉づかいが嫌悪あるいはあからさまに距離をとられる時、「そんなシンプルな価値でいいのか?」と思ってしまう。

■学校内文化にも限界がある

そのシンプルさ(あるいは紋切り型ことば)の行間から滲み出てくる、ハイティーンらしい「外の世界」への憧れのようなものがあり、ハイティーンらしくそれは屈折してはいるものの、総合的に解釈すると、僕が使うことばとそれと同時に現れる価値観が魅力的に映るようだ。

だから僕は何とかハイティーンと「居場所」で過ごすことができるのだが、そんな彼女ら彼らに「文化資本」を伝えるにはどうしたらいいんだろうと常に悩んでいる。

文化資本には3種類ある(P.ブルデュー『ディスタンクシオン』)。
ひとつは「学歴」、ひとつは「習慣」、ひとつは「日常に使うモノ」だ。
このなかでは学歴は親の経済力が最も反映するから、ハイティーンからの取り返しは難しい。ハイティーンからフォローできるものとしては、習慣(ハビトゥス)や日常使うモノ(オブジェ)のほうがまだ可能性はある。

だからofficeドーナツトークでは、高校内居場所(「となりカフェ」や「ほとりカフェ」や「なかカフェ」や「わたしカフェ」)において「文化」を伝達することに力を注いできた。

が、学校内での「文化」にも限界はある。

■親に期待できない

だから、できれば家庭内で文化教育をしてほしい。たとえ親御さんが経済的に苦労していても、習慣や文化的モノにくふうし、子どもたちの価値を広くしてほしい。

と考えるのは、部外者の支援者だから。
虐待などが多く絡む貧困家庭においては、親御さん(といっても40才にすらなっていないある意味「若者」だ)に文化資本のフォローを期待しても難しい。

親は、自分そのものである紋切り型のことばや習慣で子どもを染め上げる。
親であればアッパークラスでも子どもを染め上げはするのだが、アンダークラスになればなるほどその価値が狭くなるという一般的傾向をもつと僕は推察している(もちろん広い価値のアンダークラス親も存在する)。

■「外」の何が魅力的なのかわからない

今回この連載を始める際、さまざまな文化を紹介して支援者や教師がシェアすればいいと短絡的に考えていた。
が、問題の本質はおそらく、アンダークラス家庭が内包する「狭い価値」だ。

アッパークラス親の価値も、僕などは嫌悪するものがたくさんある。
けれども、アッパーが提供する「ことばの豊富さ」が、そのうっとおしいアッパー価値を相対化する。
要するに、アッパークラス家庭で培った教養が、アッパー価値そのものを破壊するのに役立つ(19世紀ロシアのインテリゲンチャから現代グローバリゼーション「先進国」内若者まで共通)。

これに対して、そもそも「ことば=価値の許容範囲」が圧倒的に狭ければ、その狭い土台からすべてを判断するのであるから、「外」(の僕のような者)に憧れることはできても、その「外」の何が自分にとって魅力的なのか、独自に言語することはできない。

その「言語化のできなさ」が、貧困ということだからだ。

こうしたことに関心ある大人(多くはミドルクラスより上出身だろう)は、アンダークラスことばに影響されることなく、自分たちの持つ「ことば」を大切にしてほしい。

そのうえで、それぞれのカルチャーを若者たちに伝えてほしい。★

「文化ドーナツ」より転載