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「べき」のマーケティング〜べきばっかりでウンザリ

どうも5年くらい前から鼻について仕方ないのだが、あちこちのエッセイや記事のタイトルに「〜すべき◯◯」みたいな感じでさらっと主張しているものが目立つ。

まあそのうちなくなるだろうと流していたのだが、いつまでたってもその手のタイトルは撲滅されず、いろんな単語をくっつけていつまでも残っている。

たとえば今日のFacebookタイムラインで見ただけでも、「プログラミングは小学生からすべき」とか、その他「〜すべき」がたくさん出てくる。
その中身はどうでもいいのだが、「べき」の押し付け感が僕にはうっとおしい。

べきは、言い換えると規範のことで、「学校に行くべき」とか「仕事をすべき」とか、そうした典型的規範を中心として、単なる広告コピーや本のタイトルなんかも含めると、もう我々の社会はそんなのばかりだ。

せめてエッセイとかタイトルくらいはもっと自由な適当なものであってほしいのだが、油断したら「べき」が目に入ってくる。

それどころか、「べきのマーケティング」とでも言っていいほど、「べき」は売れるあるいはヒットするのかもしれない。

べきを何気ないことばにくっつけると、新規な感じになり、人々の注目を集める。
そんな社会の雰囲気になったようだ。

僕自身は、不登校支援やひきこもり支援の中で、登校規範や仕事規範と長年にわたって向き合ってきたので、すっかり脱力してしまう。
「べき」が売れるって、なんだかなあ。★

A little voices urging me My Ghost.

■最終的には直感で決める

50才を過ぎてどんどんすべてが楽になってきているこの頃、「ゴーストという他者からの呼び声に突き動かされる」という、哲学者やアニメ監督のメッセージが素直にわかるようになってきた。

僕は、何かを「決定」する際、何かを始めるとき、最終的には直感で決めている。
その直感は、自分の内面から湧き出ているようでいて外から入り込んでくるようにも思え、哲学や精神分析で「他者」とか「不気味なもの」ととりあえず名付けられているものに近いんだろうな、と思っている。

『攻殻機動隊』の決めゼリフ「ゴーストのささやき」も同じようなもので、あれは最初は、主人公の草薙素子が広大なネット世界を通して伝わってくるさまざまなメッセージから感じ取るものの総称だったはずだが、それは同時に「決定」時の神秘的なメカニズムの要因とも受け取れる場面で現れた。

■プラスαなもの

A little voices urging me My Ghost.

ゴーストが私にささやくを英語にするとこんな感じになるらしいが、このゴーストは、「魂」でもあるし他者からの呼び声でもある。
魂の入っていない存在(アンドロイド)を攻殻機動隊では「ゴーストのない」などと表現され、ゴーストが入った状態がヒトになる。

攻殻機動隊ではネット世界に草薙素子は存在しており、そこから現実の「義体」に草薙素子の「データ体」のようなものが入り込むと、その義体は草薙素子のものとして動き始める。

それはデータ体と書くと何かが違ってくる。データの集積が草薙素子ではないし、かといって物理的身体は義体だからデータ体が入り込むまでは黙って座り込んでいる。

データの集積と、草薙素子という人格の区別は、「ゴースト=魂」としか表現できないプラスαなものがあるかどうか、のようだ。

この、魂と身体を明確に区別する発想も古いが(魂は皮膚のすべてに、身体のあらゆる場面に宿り、それら身体中に散らばる魂こそがその人そのものである、というのが哲学の最近の常識だと思う)、妙に説得力があるのもこの「ゴースト」ということばがもつ響きと意味だ。

■時空を超えて

ゴーストは他者の総称でもある。他者は、時間や空間に縛られず、生身の肉体を有する人間存在だけを意味しもしない。

石ころのような無機物も他者であり、韓国や日本の言い伝えにもあるように、石にも何かが宿っている。

また石…

50才の世界①

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前回の「なぜ太るか」は1回で終了、今回から50才の世界シリーズに変化させてみた。

というのも、食にしろ回想モードにしろ、どうにも最近の僕は「峠を超えてしまった」感があり、それは言い換えると「現役ではなくなった」ということだ。

僕は小さな小さな法人の代表だから仕事的にはまだまだ現役ではあるのだが、世間の50代は管理職を外されたりしてのんびり会社員を満喫している人も多い。

この人たちはスペシャリストとしてその分野で現役感はあるのだろう。
けど彼らの話をよく聞いていくと、もう迷いもなくなり、同時に仕事についての目標も現場的なものだけになってしまい、ヒリヒリ感がすっかりとれてしまっていたりする。

組織の真ん中に残っている50代はさすがに現役だが、多くの周縁50代はこんな感じで、のんびり過ごす。

僕は、法人が食べていかなければいけないので微妙にヒリヒリ感は残っているものの、なんというか、だいたい「1周した」感があり、あと体力が著しく落ちたこともあって、たとえば本や映画やアニメやもろもろ、僕を僕として成り立たせていた文化系作品ともすっかり遠くなっている。

哲学はいまだにこだわっているが、哲学本は一生もつから別にあわてて買う必要もない。たとえば『ミル・プラトー』(ドゥルーズとガタリ)1冊あれば、一生読むものに困らないくらい、哲学的名著は難解だ。

文章一つ書くのも、別に調べたりせずとも今はネットで簡単に必要事項は見つかるし、これまで読んできた知見の中でだいたい書ける。

要は、物事に対する問題意識だけ枯らさずになんとか生きていれば、支援もマネジメントも執筆も、だいたいは前線に立てる。
こんなのを含めて、なんというか、「50才の世界」というものが広がっており、僕はこれまでたくさん読書をしてきたが、こんなこと誰も書いてなかった。

そうだよなあ、文学も哲学もアートも、みんなある意味「思春期」を生きている。当然、ロックも。そんなのばかりに接してきたから、僕は知らないのは当たり前。
こんなのだったら、『美味しんぼ』海原雄山モデルの北大路魯山人とか、もっと読んでたらよかった。★