「つながり」という名のソーシャル・ベンチャー


■偽善か、ポリティカル・コレクトネスか

NPO的ソーシャル活動が常にはらむ問題として、「その活動は正義なのか、偽善的なものなのか」という問いがある。

たとえばマイノリティ問題において、差別的用語を使わず別のものに言い換えるポリティカル・コレクトネスについて、それが徹底されることで生まれる諸要素の排除という事態が生まれる。

歴史の中でその差別語が生まれ、さまざまな文脈の中で用いられてきた物語の重層的積み重ねがその忌まわしき差別語には含まれているのだが、その重層性と忌まわしさそのものが「人間」と人間社会の複雑さそのものであり、ポリコレはこの複雑さを排除してしまう。

だが一方でその差別語を用いることで、今現在も誰かが傷ついていることは確かだから、言い換えそのものは正しい。
けれどもその正しさが、多くの意味と歴史を排除していく。

機械的ポリコレはフォーマルな場では用いながらも、文学的哲学的重層性も見据えた言葉の柔軟性を許す表現や言論領域があったほうが、逆に、差別語が生み出した様々な悲劇が再確認できる(たとえばサリンジャーの非公式初期短編集の一作品に「気ちがいのぼく」という作品があり、これはポリコレ的規制はかかっていない)。

だが、こうした点が社会で一致することは果てしない時間を要する。その時間の中でひどい差別は繰り返されるから、機械的にポリティカル・コレクトネスしてしまうほうが簡単だ。

この機会的ポリコレに含まれる「やむなく排除されたさまざまな意味」について配慮しつつ、表現の場によってはさまざまな注釈やコーティングを用いて、マイノリティ問題を表現し語ることがひとつの誠実さではある。

だがややこしい。だからこれらややこしさに蓋をして一律にポリコレしてしまう。これが「偽善」という意味だ。


■個別利益誘導か、アドボカシーか

これは「偽善/ポリコレ」ほどややこしくはない。

アドボカシーという名の、マイノリティの代弁とそのための事業構築が、結局は自団体の利益となっていることだ。

あるいは、「おともだち」たちも含めた、一部の人々による事業寡占になる。
あるいは、自団体やおともだちたちと一定の関係性のある「地域」と結びついていき、ある種の「ソーシャル・ゼネコン」化していく。

アドボカシーには理論的正当性があり、マイノリティに光を当てるための正当性がある。その正当性(まさにコレクトネス)を土台として、具体的な事業を構築する。

その事業は、さまざまな貧困支援だったりするだろう。

その貧困支援では、「真の当事者」(たとえば相対的貧困世帯)をすべてカバーすることはなかなか難しい。

当事者は名乗れない、名乗らない。
当事者は知らない。
当事者は支援者と距離を置く。
当事者は諸事情(PTSD等)で徐々に社会からひきこもる。

これらはサバルタン問題のコアであるが、長くなるためここではこれでやめておく。
「子ども食堂」をはじめとして、当事者とはなかなか出会えないことは僕もこれまで何度も書いてきた(子ども食堂は、貧困者にとって「敗北」)。

これらの難しさはとりあえず看過し、事業を構築しそれなりに行ないそれなりに報告する。
当然、それらを行なう人々(従業員)には給与が支払われ、事務経費と称したマネジメント料も支払われる。

■打算か、「つながり」か

おともだちたちの中では、当然フラットな力関係ではなく、なんらかの権力関係がある。事業(英語「ビジネス」の訳)においては当然のことだ。

が、こうした組織体では権力関係は透明化していき、おともだちたちはフラットな関係性が演出される。

そのフラットな関係性は、「つながり」と言い換えられる。こういうかたちでポリティカル・コレクトネス/偽善はここでも発動している。

■ソーシャルセクターかソーシャル・ベンチャーか

僕の敬愛する研究者によれば、だからこうした人々はソーシャルセクターというよりは、「ソーシャル・ベンチャー」に近いのだそうだ。

確かにそう言われてみれば、しっくりくる。
僕は決してソーシャル・ベンチャーを否定しているわけではなく、「セクター」のもつ曖昧さがさまざまな人々を飲み込んでおり、ことばと意味の一致にズレが起こっていることが気持ち悪いのだ。

だから、ベンチャー系は自らソーシャル・ベンチャーと名乗って一連のムーブメントとうねりをつくりあげていくほうがわかりやすく、中の人々も盛り上がるのではないだろうか。

10年くらい前に沸き起こった投資系新興企業ブームやその少し前にあったITベンチャーブームと同じく、ソーシャル・ベンチャーの時代を沸き起こしていけばいい。そのほうがスッキリする。

■無邪気か、自覚的か

で、これらを僕は、それらソーシャル・ベンチャー組織リーダーたちは自分たちのあり方についてまだ無意識的だ、「無邪気に正義している」とFacebookで書いたのであるが、先の敬愛する先生によると、ベンチャーのリーダーたちは十分意識的だという。

それであればなおのこと、アイデンティティ受け入れ葛藤の時間も省略されるから、「ブーム」づくりに向けて邁進していってほしい。(^o^)


サリンジャー選集(2) 若者たち〈短編集1〉「気ちがいのぼく」所収