保育なんて興味ない


■90才は余裕

人口構造的に、40才前後の団塊ジュニア世代と70才前後の団塊世代を筆頭に、微妙に多い50才前後のバブル世代も含めると、世の中の「ホンネ」は40才以上が何を欲望するかで今は動いているように思う。

自分の青春時代を象徴した元アイドル(たとえばキョンキョン)が活躍していれば応援するし、1番辛かった頃に支えてくれたアニメ作品(たとえば『エヴァンゲリオン』)は新作が劣化し続けようが応援する。

ただ、少子高齢社会となり、社会の将来ビジョンを考えた時、それは当然、将来の現役世代=社会保障を担う人々である「子ども」を大切に、という議論は聞かざるをえない。

有力NPOたちもそんな議論ばかりしている。

それは当たり前ではあるが、正論だ。その正論には誰も勝てるわけない。社会は若者たちが担い、その予備軍である赤ちゃんや幼児を社会は育てていく必要がある。

そんなことは誰にでもわかる。

が、そうした正論と、40才以上の人々のホンネというか欲望は見事にすれ違っている。
自分たちの身体の健康を育む文化が行き渡った現在、「100才」は全然夢物語ではない。現在100才以上は3万人おり、それが1つの市を形成することもできる。

100才まではムリでも、90才は余裕だ。僕も、高齢ひきこもりをもつ80才前後の母親たちに対して、「100才を目指しつつ最低95才は生きましょう!」なんて日常的に面談支援している。

■社会全体が「上」へ年齢スライド

つまりは、社会全体が「上」へ年齢スライドしている。80才なんて当たり前、100才を目指しつつ充実した90代ライフを謳歌することが、2010年代後半の日本社会のモードなのだ。

そうなると、乳幼児や子ども、そして10代やハイティーンの人生なんて、ホンネではまあどうでもいい。

ホンネは、自分が100才に到達できるかどうか、死ぬ直前まで寝込むこともなくできれば認知症になることもなく健康に歩き続け、ある日ぽっくり死んでしまうことが社会の1/2の人々の欲望になっている。

■NPOの保育政策提唱なんてほとんど無意味

社会の前線で活躍するNPOの人々が「保育園」云々を訴えても、ホンネのレベルではそれを看過する人々がどんどん増えている。保育園問題よりも自分の老いや死の問題のほうに関心ある人々が年々増えているということだ。

だが、タテマエのレベルでは、保育園の重要性の議論に人々は合わせる。ポリティカル・コレクトネス的に、保育園政策の重要性、人口増加政策の重要性は支持していたとしても、40代以上のホンネはおそらく、自分たちの「それなりの幸福」だ。

そこには、社会政策としての人口増加はあまりなく、そうした現在進行形の社会政策には関心が薄くなっている。
子どもが増えようが減ろうが、自分の「死」とはまったく関係ない。

自分は、ひたすら「善き死」を迎えたい。それは誰にも言えないから一人で抱えている。それを言ったとしとても心許せる高齢者コミュニティの中だけでだろう。

ホンネの部分では、赤ちゃんや子どもの増加にはほとんど興味がない、だがそれはオモテでは内緒にしている、同時に選挙のような匿名自己表象においてはささやかに自分のホンネを出す。
それが高齢社会だ。

おもしろいのは、そうしたある意味「高齢者ジコチューな社会」が隠蔽され、ポリティカル・コレクトネスに代表されるタテマエばかりが覆っているということだ。

この大きな力の前では、NPOの保育政策提唱なんてほとんど無意味なのだが、誰も無意味なんて言わないのが我々のタテマエ社会の特徴だ。(^o^)


最初読んだ時は衝撃的だったが、もはや普通の光景。