ソーシャルセクターの事業は、批評される必要がある


■キャンプファイヤとソーシャルグッド

府立西成高校で「モーニングとなりカフェ」を実行する際、今年度は大阪府の予算がつかなかったことから、初めてクラウドファンディングに挑戦してみた。

それはキャンプファイヤというクラウドファンディングで、読者のみなさまにもたぶんずいぶんご協力いただき、ありがたいことに目標金額(20万円)に到達することができた。

そのおかげで、当初の9月だけではなく、2学期全範囲に渡ってモーニングとなりカフェを開催できている。あらためて、感謝いたします。

それはさておき、キャンプファイヤに企画書を書いたりするなかで新しい言葉と僕は出会った。

それは「ソーシャルグッド」という言葉だ。
直訳すると「社会的善」だから、僕は勝手に「社会貢献」10年代バージョンだと解釈している。ネットのIT用語辞典というサイトに同語の解説もある(ソーシャルグッド 【英】Social Good)。

御存知の通り、キャンプファイヤは、あのIT起業家・家入一真氏が手がける会社で(群衆(crowd)から資金集め(funding)ができる、 日本最大のクラウドファンディング・プラットフォームです。)、社会貢献事業への出資だけではなく、著名人が挑戦する事業へのクラウドファンディングも広く求めている。

キングコング西野氏の『エントツ畑〜』も同社のクラウドファンディングで資本化できたもので、いま確認したら、なんと4千万円も支援金が集まっていた(キングコング西野の個展『えんとつ町のプペル展』を入場無料で開催したい!)。


■good/善とは、倫理の代表的ことば

ソーシャルグッドは直訳すると「社会的善」になり、このgood/善とは、つまりは「倫理/エシックス」の代表的ことばでもある。

キャンプファイヤはそこまで意図していないだろうが、goodを使った途端、そこで言われる「善さ」とは何か、という議論が生じてしまう。

そしてそのgoodには、その社会における「善さ」の価値基準が含まれ、たいていそれは、説教臭く堅っ苦しい。

キャンプファイヤがgoodと認め、そしてそのgoodを自認して応募するソーシャルセクターには、それぞれの倫理基準を自覚することが求められてしまう。
善さ、という言葉をつかった瞬間、その概念は倫理的判断を迫られる。

それが、「倫理=善/悪」ということであり、人間はその倫理からの追求はなかなか逃れられない。
その基準から逃げるのは、ニーチェやドゥルーズが提唱するように、「気持ちよさ/悪さ」といった判断の地平を入れ替えることなのだが、それはまた今度。

■ソーシャルセクターの事業は、批評される必要がある

もうひとつ、ソーシャルグッドとして社会に訴えるソーシャルセクターの各事業は、社会に「この事業は必要です」と訴えるわりには、社会からそれほど「批評」されてこなかった。

総合学習で高校生の生き方を語り合う事業、塾クーポンを広く配る事業、地域若者サポートステーション事業、ニートがひきこもりを支援する事業、もちろん僕がここ6年取り組んできた「高校内居場所カフェ事業」も含め、ソーシャルセクターが取り組む目新しい事業は、税金を使うものが多数含まれているにもかかわらず、その事業的精錬度を深く論評されることはなかった。

が、特定非営利活動法人(代表的NPO=Not-for-Profit Organization)が5万を超え(広義では非営利型株式会社や一般社団法人もNPO)、売上数億円のNPOも現れ始めた現在、その「黎明期」も終わった。

ソーシャルグッドだからといって、また目新しい事業だからといって、また一見マイノリティ支援の事業だからといって、事業そのものを批評せず野放しにしておくのは、税がもったいないというよりは、ソーシャルセクターをレベルアップする意味においてあまり望ましくない。

新しく目新しい事業とは、ある意味クリエイティブでありアーティスティックだということだから、映画評論や文芸評論があるように、クリエイティブでアーティスティックなものは「批評」がくっついてくる。

ソーシャルセクターの事業は、批評される必要がある。

そんなわけで、今年後半から僕が始めた「劣化する支援」イベントには、そんな意味があるんだと気づいた次第です。
11/7大阪では超満員だった同イベント、12月と2月に、静岡と京都で開催予定です。(^^)

12/27静岡
閉塞と劣化@静岡 劣化する支援2



2/20京都
劣化の拡大@京都 劣化する支援3