大学生とNPOリーダーの、密かな共犯


■「劣化する支援」から広がっている

前回の「NPOリーダーは、それを支持する人々の鈍感な欲望の象徴」は、Yahoo!でもBLOGOSでもないインディーズ・ブログだったわりには7500アクセスに届き、静かに読まれているようだ。

僕の文章が読みにくい、思わず反論したくなる等々、アクセスの中身はいろいろ想像できるものの、「劣化する支援」から広がっている、

今のNPOは何かおかしいのでは?

という疑問は確かに共有されているようだ。

前回は、ソーシャルを語りながらその実はベンチャー色が強い現在のNPOリーダーは、それを支持する人々あってこその象徴だと、たしかに抽象的に書いた。

今回は、それを支持する人々の代表を、「大学生」と絞り込みたいと思う。
また、大学がない地方の場合、「中央の流行に敏感なソーシャル的な人々」と括ることになるかもしれない。

が、今回は具体性のはじめとして、とりあえずは「大学生」に絞ってみたい。

■「ソーシャル・ベンチャー」ならではの巧妙さ

某超有名NPOリーダーが東大に講演に行った時、東大生たちはキラキラした目でそのリーダーを見つめていたという。
そのリーダーは、ニュースなどにも度々登場する有名人なのではあるが、彼が書いたブログはポリティカル・コレクトネス一色で、そのホンネの部分がなかなか見えてこない。

理屈としては相当筋金入りなので反論はなかなか難しいものの、そのポリコレ感(正義の押し付け)が窮屈だ。
また、自らのポリコレ性を笑いに変えるわけでもなく(ポリコレ人たちはこれができない)、出産費用やら養子縁組やら待機児童やら、これでもかと「正論」を投げかけてくる。

それはそうなのだ。が、空気社会日本では、それらが現実化できない理由がたくさんある。そのムリさ硬直さの中身を丁寧に検討していってこそ、我々の社会はゆっくりとではあるが動き始める。

ポリコレ的に「上から」断じてしまうのは、かえって反発を呼ぶ。
たぶんその有名NPOリーダーもそうした日本独特の硬直性は知り尽くしている。知り尽くしながらそれでも戦略的にたたみかけてくるのが、「ソーシャル・ベンチャー」ならではの巧妙さだ。

■共犯コミュニケーション

このたたみかけに、若者は弱い。
というか、かっこいいと思ってしまう。だから、東大生もキラキラとそのNPOリーダーを見つめるのであるが、問題は、見つめた先の「結果」だ。

結果、前回も書いたように、「真の当事者」が潜在化させられていく。
NPOリーダーがマイノリティ問題の代表となり、それをそのマイノリティ問題に関心ある人々(大学生等)が支持し支え問題を取り囲む。

そうなると、リーダーや支持者の日常生活圏内で容易に届く範囲の人々がさらなる支持者となっていく。
そうした人々は、今の日本では、子ども食堂に通える人や、行政の見えやすい支援事業(塾クーポン)を利用していく。

そうした人々も当然「当事者」ではあるが、それは当事者の中ではある意味「名士」的人々だ。

スピヴァクが「サバルタンは語ることができるか」でふれる、インドの地域名士のような人々だ。

これら、「NPOリーダー〜それを支持する大学生〜それらがアウトリーチしやすい地域の名士」が一体になった共犯コミュニケーションが、真の当事者である「サバルタン」を隠す。

■リーダーや大学生のもつキラキラ感は罪深い

おもしろいことに、NPOリーダーが有名になり、それを多くの支持者(大学生)がキラキラした目で支え続けることにより、リーダーや支持者が概念的に捉えているだろう真の当事者は遠くなっていく。

それが、今の日本で起こっている事態だ。

サバルタンは語ることはできない。それは、リーダーやその支持者である大学生が盛り上がれば盛り上がるほど潜在化していく。

そして、たとえば、虐待サバイバーはサバルタンとして見えなくなってしまう。それが見えるのは、「高校内居場所カフェ」等の、支援とは少し離れた日常の場の、何気ないトークの中から浮かび上がる。

これは某有名リーダーだけの話ではない。「ソーシャルベンチャー」的リーダーは、たいてい大学生が好きだ。

東京でも大阪でも、大学生たちはソーシャルベンチャーに引き寄せられている。現代の青田刈りはソーシャベンチャー業界に顕著であり、その両者(NPOマネジメント層と学生)は上の意味で共犯関係にある。

リーダーや大学生のもつキラキラ感は、結構罪深いのだ。(^^)

内閣府より特命大臣賞をいただきながらも、とりいそぎ「劣化NPO」を煙たがる僕。