2013年1月25日金曜日

グールドもニール・ヤングも「変な大人」、そして大島渚も


■3/16はNPOユースカフェ

1/19、当ブログでも長く宣伝してきた「3世代NPOと『公共性』http://toroo4ever.blogspot.jp/2013/01/3npo.html」が無事終わり、今週は何となく気の抜けた1週間になってしまった。
次は、NPO等のサードセクターで働く若手スタッフを対象に、「カフェフィロ」(大阪大学「臨床哲学」より生まれた団体)と組んで、3/16(土)午後に「NPOユースカフェ」という集まりを企画している。

これは、「3世代〜」よりももっと現実に即した集まりで、サードセクターの次世代スタッフ育成を目的とする(ユースと付いているのは「若手スタッフ対象」という意味で、青少年ジャンルに限るものではなく幅広いジャンルが対象です)。
同種のものは最近あちこちにあるが、カフェフィロと組んで哲学的に根源的にかつの〜んびりざっくばらんに追求していこうっていうのがこのシリーズの狙いだ。

会場はクレオ大阪中央を予定しているものの、今日料金を払って決定ということになるので、具体的な宣伝は少し後になります。
テーマは、「NPOに必要な“公共性”とは?」で、カフェフィロイベントではおなじみの「魔法のボール」コミュニティーボールを使ったワークショップです。詳しい宣伝文をお楽しみに〜

■ニール・ヤング、グールド、み〜んな「変」

そんなわけで今日は音楽と「変な大人」の話を少し。
僕は毎日真面目なことばかり考えているわけでもなく、時々はぼんやりと仕事に関係なくネットを探索する。この頃は知り合い達がFacebookに貼り付けてくれる昔のミュージシャンの画像をのんびり見ることが多い。

そんな流れから、何となくこのニール・ヤングの「ヘルプレス」を見てみた。
変すぎて渋過ぎてかっこよすぎる〜!!

渋い。泣ける。初めてこの曲を聞いたのは確か大学2年生くらいだったか……、あれは高校時代の同級生とお酒を飲んでいてそいつがギターでがなり始め……、いや、そうした昔話はいいや。

歌詞の中身も実はどうでもよかったりする。単に、このニール・ヤングの佇まいと声が、僕をなぜか癒してしまうのだ。

そんな「youtube探索」のネットサーフィンは、ジャンルを超えて、グレン・グールドの「ゴルトベルク変奏曲」に移行した。
なぜ歌う? 

これもまたすごすぎる〜!! グールドの場合、変人を超えている。なぜこの椅子の位置(有名なグールドのマイチェア)? なぜ鼻歌で歌いまくる? なぜこんな姿勢なのにこんなに弾けてしまう? で、なぜバッハの曲がこんな超絶速弾きになってる? 数々の謎を無視して、グールドは45分弾き続ける。
それは、一番真摯なコミュニケーションのようにも見える。

■音の塊と、日本人変な大人

貼り付け始めたらキリがない。
たとえばこれはどうだ!! 
最近の復活ライブは息子がドラマー。
ツェッペリンの変さはこの父・ジョン・ボーナムがたたきだす。

レッド・ツェッペリンの昔の映画から「永遠の歌」。渋谷陽一ではないが、「音が塊」として届いていくるさまは圧倒的。音自体が「変」なのだ(映像にはジョン・ボーナムは全然出てこないので、音だけ聞いてくださいね)。

ではこれは?
結局二人は仲良かった。本当の「友だち」。

RCサクセションの「いいことばかりはありゃしない」10分バージョン。最後のほうの、「なんにも変わっちゃいないことに気がついて……」の叫びに涙したのは僕だけか。

■変な大人はパンダだけではない

調子に乗りすぎたかな。でもまあ、イベントの合間ということでご容赦くださいね。

つまり僕が言いたいのは、「究極の変な大人」はパンダもそうではあるが(この記事参照http://toroo4ever.blogspot.jp/2012/12/blog-post.html)、やっぱり人間にもいた、ということだ。

それはロックに限定というわけではなく、グールドが典型的なように、ジャンルを超えて存在する。それは音楽だけではなく、この映画を作った亡き大島渚もそうだった。
「日本の夜と霧」
暑っ苦しく芸術性はあまりないように見えるが、これを作りきったという行為自体が「変」。

大島渚は今考えると、彼の決まり文句「バカヤロー!!」にもつながる、瞬間の映像に美学があった(たとえば「戦場のメリークリスマス」のラスト)。

「戦場のメリークリスマス」は1983年の作品。この頃からすべての作品は産業化し、大々的になっていったが、同時に「変さ」も商品としてコントロールされ始めた。

商品となった「変」では人を癒すことはできない。パンダは、そうした商品性をもうちくだく力強い「変さ」を内包しているが、人間にはそこまでの「変な力」は残念ながらないようだ。

まだ「変さ」が商品化されずコントロールしにくかった70年代までの文化作品に人々が懐かしさを感じるのは、作品の優劣ではなく、「社会規範からはみでた変さ」になぜか癒しを感じてしまうからなのでは、と僕は思う。

疲れているのは何もひきこもりや不登校の青少年だけではない。大人もみなこの(フーコー的管理)社会に窮屈さを感じており、どこかに癒しを求める。
その意味で、70年代ロックも、60年代大島渚も、50年代グールドも(映像は80年のものだが)、そして白浜のパンダもみな同じ。

でもまあ、やっぱりパンダが最強かなあ★